2013年 07月 04日
知覚の現象学 共感覚について |
先日のセミナーで突然に口に出た言葉ではありますが「共感覚」について少し考えていきたいと思います。
視覚と触覚の話から、私は視覚で得た情報から触覚が芽生えてくるという話に対して「共感覚」という言葉を使いました。口に出た後にしっくりくるなという感覚を得たので、その言葉について考えていきます。
そもそも感覚を五種に限定すること自体、厳密にはできません。運動感覚、平衡感覚、内蔵感覚など、五つでは捉えきれない感覚作用はいくつもあります。
皮膚感覚に限っても、手で触ること意外に、圧覚、温冷覚、痛覚など分類しにくい種々の働きが含まれています。
このようにたくさんの知覚をありきたりの言語活動によよって、生理的・概念的な知覚に終始する限り、私たちは知らず知らずに多くのものを汲みそこなっていることになるのではないでしょうか。
共感覚表現は本来的に、言語表現の隙間を埋め、知覚体験にあたっての正確さの追求を目指すものと考えるべきではないだろうか。
アプレジャーの本の中で、組織の緊張が緩む感覚を「バターが溶けるような感覚」と表現しているのも通常の「組織が緩む」では伝わらない迫真力が内在しているように思えます。
いわゆる科学的な知覚の中では、どうしても感覚の一つ一つを個別に考えがちになります。
感覚同士は自由に交流し合い、想像力を存分に駆使し、体験に密着した正確な姿を表現するものであると考えることは出来るのではないでしょうか。
私が最近勉強しているフランスの哲学者であるメルロ・ポンティはこのように述べています。
「もしある現象がー例えば、反射光にせよ風のかすかなそよぎにせよ、ー私の感官の一つにしか与えられないならば、それは幻影に過ぎない。(・・・・)セザンヌがかつて言ったように、テーブルはそれ自体のうちに風景の匂いまでも含んでいる。」
「感覚するということ」の章では「どんな感覚も夢や離人症の萌芽を含んでいる。」
美味なもの、美しいものを味わったり診たりした時、私たちがうっとりと我を忘れた気分に浸るのは事実です。
感覚体験は真偽の外側にあり、言語化も概念化もしにくいから、なおのこと日常現実の枠組みの外へ出たとの感慨に結びつきやすい。
メルロ・ポンティはさらにこのように言っています。「もし知覚的経験を正確に表現してみようとするなら、私は、人が私の中で知覚するのであって、私が知覚するのではない、とでも言わなければならなくなるだろう」
多くの先生とこの共感覚については良くお話しします。
練習中にも、こんな感覚という共感覚表現は多くの先生と共通認識であるとも思っています。
真実に迫る迫真力を備えられる言語能力を学んでいきたいと思っています。
よく最近はどんな勉強をしているのかと、勉強会でお会いするたびに聞かれているので、この機会にお伝えしますが、この半年間ずっと哲学書を読んでいます。
おすすめの一冊を今回ご紹介したのでぜひ読んでもらえると嬉しいです
視覚と触覚の話から、私は視覚で得た情報から触覚が芽生えてくるという話に対して「共感覚」という言葉を使いました。口に出た後にしっくりくるなという感覚を得たので、その言葉について考えていきます。
そもそも感覚を五種に限定すること自体、厳密にはできません。運動感覚、平衡感覚、内蔵感覚など、五つでは捉えきれない感覚作用はいくつもあります。
皮膚感覚に限っても、手で触ること意外に、圧覚、温冷覚、痛覚など分類しにくい種々の働きが含まれています。
このようにたくさんの知覚をありきたりの言語活動によよって、生理的・概念的な知覚に終始する限り、私たちは知らず知らずに多くのものを汲みそこなっていることになるのではないでしょうか。
共感覚表現は本来的に、言語表現の隙間を埋め、知覚体験にあたっての正確さの追求を目指すものと考えるべきではないだろうか。
アプレジャーの本の中で、組織の緊張が緩む感覚を「バターが溶けるような感覚」と表現しているのも通常の「組織が緩む」では伝わらない迫真力が内在しているように思えます。
いわゆる科学的な知覚の中では、どうしても感覚の一つ一つを個別に考えがちになります。
感覚同士は自由に交流し合い、想像力を存分に駆使し、体験に密着した正確な姿を表現するものであると考えることは出来るのではないでしょうか。
私が最近勉強しているフランスの哲学者であるメルロ・ポンティはこのように述べています。
「もしある現象がー例えば、反射光にせよ風のかすかなそよぎにせよ、ー私の感官の一つにしか与えられないならば、それは幻影に過ぎない。(・・・・)セザンヌがかつて言ったように、テーブルはそれ自体のうちに風景の匂いまでも含んでいる。」
「感覚するということ」の章では「どんな感覚も夢や離人症の萌芽を含んでいる。」
美味なもの、美しいものを味わったり診たりした時、私たちがうっとりと我を忘れた気分に浸るのは事実です。
感覚体験は真偽の外側にあり、言語化も概念化もしにくいから、なおのこと日常現実の枠組みの外へ出たとの感慨に結びつきやすい。
メルロ・ポンティはさらにこのように言っています。「もし知覚的経験を正確に表現してみようとするなら、私は、人が私の中で知覚するのであって、私が知覚するのではない、とでも言わなければならなくなるだろう」
多くの先生とこの共感覚については良くお話しします。
練習中にも、こんな感覚という共感覚表現は多くの先生と共通認識であるとも思っています。
真実に迫る迫真力を備えられる言語能力を学んでいきたいと思っています。
よく最近はどんな勉強をしているのかと、勉強会でお会いするたびに聞かれているので、この機会にお伝えしますが、この半年間ずっと哲学書を読んでいます。
おすすめの一冊を今回ご紹介したのでぜひ読んでもらえると嬉しいです
by kosuke-n
| 2013-07-04 18:55
| 哲学