2014年 12月 05日
聞こえる色、見える音 |
先日から東京藝術大学のイベントにいくつか参加させて頂いています。
明日は、毎年、東京藝術大学にて行われています、「障がいとアート」に仕事の合間を見つけてお邪魔させて頂きます。
いつもご招待いただきありがとうございます。
アートですが、聖路加病院の日野原先生が本を訳されていることでも有名なオスラー先生の名言がまず頭に浮かびます。
The practice of medicine is an art, based on science.
医療は科学に基づいたアートである。
この言葉は多くの医学書にも引用されており、我々医療従事者にとっても忘れてはならない言葉だと思っています。
そんなわけでアート・藝術について個人的に興味を持って哲学や心理学を勉強していましたら、患者さんの紹介で、このようなイベントにも招待していただけるようになりました。
いろんなご縁をありがとうございます。
藝術が人の琴線に触れることで人の悩み・苦痛を忘れる瞬間が生まれます。
そのことで痛みのコントロールや痛みの受容という我々では起こすことのできない変化が起こると信じています。
多くの人がこのようなイベントに参加できる様に少しでもご紹介できたらと思っています。
先日、科学新聞社が主催されているカイロプラクティックセミナーで、尊敬してやまない中川先生と榊原先生の講義がありました。
午後からはタイの寺院で副寺長をしておられる先生の禅の講義もありとてもありがたいお話を聞くことができました。
そんなタイミングのなか、藝術関係の方から禅の思想に近いお話について議論することがありましたので、そのことについて考えていきたいと思います。
johncage「4'33"」について、どのように思うか。
4分33秒の無音の音楽として知られるこの曲について、どのように皆さんは感じるでしょうか?
自分なりに考えてみました
沈黙の4分33秒。この沈黙の間、音を探してみます。すると、一定のリズムが聞こえてきます。耳を澄ませてみると、落ち着いてくるかの様にリズムはゆっくりになっていきます。それは心臓の音でした。このリズムを意識から取り除くと、次の音が次第に聞こえ始めます。先ほどよりもゆるやかで大きく涼しげな音。呼吸の音です。水を媒体とした強く重い心臓の音、空気を媒体とした軽く緩やかな音を自信が奏でているのに気づきます。
さらにこの二つの音を意識から外します。そこに有るのは無です。休符の様に意味を持った無音に気づきます。文章で言えば、行間、語り得ぬもの、染め物であれば無地、空間であれば間。無にあるのは心であり、この4分33秒には聞く側の心が演奏されている時間と言えるのではないでしょうか。
音楽を聴くというのは、そもそも演奏を「聞く」という受動的なことではなく、自分の中にある「音を演奏する」能動的なことなのかもしれません。どんな名曲を聞くことでも、聞く人その人の心にある音を聞く、奏でる、手を加えて自分の音として聞いています。それが鑑賞することなのでしょう。
音楽を聴くその時の自分の状態によって聞こえ方、感じ方は異なります。この4分33秒の沈黙の中でも同様に、自分の中にある音を聞く、そのような時間に私は感じました。自分が発している音を奏で、そして鑑賞して、その時の自分を発見することができます。無から出る有とは自分の心なのでしょう。
参加させていただいてみて
盲目の絵描き、エムナマエさんの印象的だったお言葉。
『絵を描いても自分で見ることができないので楽しくなかった。しかし、もう一度絵を描いた時に、妻がとても喜んでくれたことで、絵を描く喜びを再び知ることができた。』
見て喜んでくれる人が書くための動力になる、とても響きました。
藝術作品というのは一人歩きできる物です。
すでにお亡くなりになった芸術家の作品も現在でも多くの人に感動を与えます。
「もの」というのは空間と時間を移動できる、一人歩きできるものです。
作者や見る人が同じ空間に存在しなくてもそこに感動をおくことができます。
しかし、エムナマエさんの藝術作品は一人歩きせず、エムナマエさんと奥様の空間・時間の繋がりになりました。
エムナマエさんの絵は目が見えないためか、境界がない絵という印象を受けます。
今回「障がいとアート」というイベントでその絵の様に境界をない・そして繋がる空間となったと感じています。
にしむら治療院
明日は、毎年、東京藝術大学にて行われています、「障がいとアート」に仕事の合間を見つけてお邪魔させて頂きます。
いつもご招待いただきありがとうございます。
アートですが、聖路加病院の日野原先生が本を訳されていることでも有名なオスラー先生の名言がまず頭に浮かびます。
The practice of medicine is an art, based on science.
医療は科学に基づいたアートである。
この言葉は多くの医学書にも引用されており、我々医療従事者にとっても忘れてはならない言葉だと思っています。
そんなわけでアート・藝術について個人的に興味を持って哲学や心理学を勉強していましたら、患者さんの紹介で、このようなイベントにも招待していただけるようになりました。
いろんなご縁をありがとうございます。
藝術が人の琴線に触れることで人の悩み・苦痛を忘れる瞬間が生まれます。
そのことで痛みのコントロールや痛みの受容という我々では起こすことのできない変化が起こると信じています。
多くの人がこのようなイベントに参加できる様に少しでもご紹介できたらと思っています。
先日、科学新聞社が主催されているカイロプラクティックセミナーで、尊敬してやまない中川先生と榊原先生の講義がありました。
午後からはタイの寺院で副寺長をしておられる先生の禅の講義もありとてもありがたいお話を聞くことができました。
そんなタイミングのなか、藝術関係の方から禅の思想に近いお話について議論することがありましたので、そのことについて考えていきたいと思います。
johncage「4'33"」について、どのように思うか。
4分33秒の無音の音楽として知られるこの曲について、どのように皆さんは感じるでしょうか?
自分なりに考えてみました
沈黙の4分33秒。この沈黙の間、音を探してみます。すると、一定のリズムが聞こえてきます。耳を澄ませてみると、落ち着いてくるかの様にリズムはゆっくりになっていきます。それは心臓の音でした。このリズムを意識から取り除くと、次の音が次第に聞こえ始めます。先ほどよりもゆるやかで大きく涼しげな音。呼吸の音です。水を媒体とした強く重い心臓の音、空気を媒体とした軽く緩やかな音を自信が奏でているのに気づきます。
さらにこの二つの音を意識から外します。そこに有るのは無です。休符の様に意味を持った無音に気づきます。文章で言えば、行間、語り得ぬもの、染め物であれば無地、空間であれば間。無にあるのは心であり、この4分33秒には聞く側の心が演奏されている時間と言えるのではないでしょうか。
音楽を聴くというのは、そもそも演奏を「聞く」という受動的なことではなく、自分の中にある「音を演奏する」能動的なことなのかもしれません。どんな名曲を聞くことでも、聞く人その人の心にある音を聞く、奏でる、手を加えて自分の音として聞いています。それが鑑賞することなのでしょう。
音楽を聴くその時の自分の状態によって聞こえ方、感じ方は異なります。この4分33秒の沈黙の中でも同様に、自分の中にある音を聞く、そのような時間に私は感じました。自分が発している音を奏で、そして鑑賞して、その時の自分を発見することができます。無から出る有とは自分の心なのでしょう。
参加させていただいてみて
盲目の絵描き、エムナマエさんの印象的だったお言葉。
『絵を描いても自分で見ることができないので楽しくなかった。しかし、もう一度絵を描いた時に、妻がとても喜んでくれたことで、絵を描く喜びを再び知ることができた。』
見て喜んでくれる人が書くための動力になる、とても響きました。
藝術作品というのは一人歩きできる物です。
すでにお亡くなりになった芸術家の作品も現在でも多くの人に感動を与えます。
「もの」というのは空間と時間を移動できる、一人歩きできるものです。
作者や見る人が同じ空間に存在しなくてもそこに感動をおくことができます。
しかし、エムナマエさんの藝術作品は一人歩きせず、エムナマエさんと奥様の空間・時間の繋がりになりました。
エムナマエさんの絵は目が見えないためか、境界がない絵という印象を受けます。
今回「障がいとアート」というイベントでその絵の様に境界をない・そして繋がる空間となったと感じています。
にしむら治療院
by kosuke-n
| 2014-12-05 20:40
| 哲学