2010年 09月 14日
真善美 |
昨晩、一般の患者と親戚への治療効果の変化について友人と話した。
タッチケアやヒーリングなどの治療では親戚の患者への治療効果が思うようにいかなくなるそうだ。
感情の移入が原因と考えられているようだ。
福岡先生のエッジエフェクトの中で、同じ様なことが書かれていた。
柄谷行人さんとの対談の部分にある。
科学がテーマになっている。
柄谷さんは、あるものを知的認識(科学)の対象とするには、それに対する美的判断や道徳的判断をカッコに入れなければならない。一方で、それを美的判断の対象とするには、真偽の判断や道徳的関心をカッコに入れなければならないとおっしゃっています。カッコに入れる、またはカッコをはずすことで、真善美の判断を入れ替えることができるかもしれませんが、そこには何らかの優先順位をつけて現実問題を判断しなければいけないと言う局面もあると思います
ものあるいは人を操作的な対象として扱うことは、ある意味ではやむを得ないことです。例えば、医者は手術をするとき、患者を美的な対象、道徳的な対象としてみるべきではない。感情をまじえず、単に物体としてみるべきです。外科医になるためには、そういう訓練が必要です。これは難しい。医師は自分の家族の手術をすることを避けると聞いています。しかし、本当に難しいのは、感情をまじえず相手を単に物体としてみるようになることではないと思います。感情をまじえないと言うことは、感情を持たないことではない。単にそれをカッコに入れるだけです。手術が終わったらカッコに入れたものをはずさないといけない。カッコに入れ、滑それをはずす、そういう態度の転換が自在にできるようになることが難しいわけです。
患者の治療には、美的判断や道徳的判断を抑制し、理論的対象として見る必要がある。
親族への治療は、感情的な判断が理論的・知的認識をブレさせてしまう。
感情は術者に緊張を与え、繊細な手技をにぶらせる。
あくまでも一人の患者として距離を保って診ることが大事である。
タッチケアやヒーリングなどの治療では親戚の患者への治療効果が思うようにいかなくなるそうだ。
感情の移入が原因と考えられているようだ。
福岡先生のエッジエフェクトの中で、同じ様なことが書かれていた。
柄谷行人さんとの対談の部分にある。
科学がテーマになっている。
柄谷さんは、あるものを知的認識(科学)の対象とするには、それに対する美的判断や道徳的判断をカッコに入れなければならない。一方で、それを美的判断の対象とするには、真偽の判断や道徳的関心をカッコに入れなければならないとおっしゃっています。カッコに入れる、またはカッコをはずすことで、真善美の判断を入れ替えることができるかもしれませんが、そこには何らかの優先順位をつけて現実問題を判断しなければいけないと言う局面もあると思います
ものあるいは人を操作的な対象として扱うことは、ある意味ではやむを得ないことです。例えば、医者は手術をするとき、患者を美的な対象、道徳的な対象としてみるべきではない。感情をまじえず、単に物体としてみるべきです。外科医になるためには、そういう訓練が必要です。これは難しい。医師は自分の家族の手術をすることを避けると聞いています。しかし、本当に難しいのは、感情をまじえず相手を単に物体としてみるようになることではないと思います。感情をまじえないと言うことは、感情を持たないことではない。単にそれをカッコに入れるだけです。手術が終わったらカッコに入れたものをはずさないといけない。カッコに入れ、滑それをはずす、そういう態度の転換が自在にできるようになることが難しいわけです。
患者の治療には、美的判断や道徳的判断を抑制し、理論的対象として見る必要がある。
親族への治療は、感情的な判断が理論的・知的認識をブレさせてしまう。
感情は術者に緊張を与え、繊細な手技をにぶらせる。
あくまでも一人の患者として距離を保って診ることが大事である。
by kosuke-n
| 2010-09-14 22:54
| 徒手医学