部分と関係を哲学する |
東洋医学を推奨する立場になれば、
”部分を見ていても問題の解決にはならない。もっと全体の関係性を見るべきだ!”
となる。
西洋医学の立場となれば、
"分けることは、分かることである!!細かく分けていくことで、根を見つけることに繋がるんだ"
今のやり取りは私の勝手な解釈ですが、このようなやり取りはよく行わています。
どちらも間違っている様には思えません。
今話に出た「関係」「部分」という言葉について哲学してみます。
生命現象において「部分」と呼ぶべきものはありません。
「全体は部分の総和以上の何ものかである」
我々が分けていくために「切り取っているもの」、これは流れであり、機能であり、時間、空間、様々なもの、これが総和以上の何かです。
これが生命を生命たらしめるもの、バイタルなのでしょう。
こんな風に考えるとあたかも全体の関係性を診る東洋医学が素晴らしいんだ!と考えれそうです。
しかし、東洋医学の言う「関係性」というのもすこし客観的な立場から考える必要があると思います。
「視覚」について勉強していると「錯視」というワードによく出会います。
我々は脳に張り付いたバイアスによって勝手にパターンを認識してしまうという癖があります、これがいわゆる「錯視」分かりやすく言えば空耳、空目です。
本当は全くの偶然なのに、そこに特別のパターンを見てしまう。
月を見てそこにうさぎを見る様に・・・。
エルンスト・マッハによって、色が変わろうとするところに表れるより暗いバンド、より明るいバンドに気づいて作られたマッハ・バンドは錯視の一つとして知られています。
これは側方抑制として知られる視細胞の隣り合う細胞同士の連携がなしている機能です。
これとは別に、滑らかすぎる変化に、人工的なギザギザや縞模様が出現してしまう空目も存在しています。
人間は輪郭のないところに輪郭を求めてしまいます。
色についても同様です。
リンゴに短波長光(青色)を当てると、アントシアニンがこの色を吸収し、反射する光がないためにリンゴはグレーに見えます。
色の見え方というのは、物質を構成している元素と、光と、そしてそれを見る人間の眼の視覚機能との総合的な現象だと言えます。
このように錯覚を学ぶと、「関係性」というのは妄想ではないだろうかとも思えてくる。
「世界はわけても分からない」の福岡伸一先生の言葉を引用すると、
人の眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、人の認識が見いだした「関係」の多くは妄想でしかない。私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして見たと思っていることもある意味ですべてが空目なのである。世界は分けなければ分からない。しかし分けても本当に分かったことにはならない。
講談社
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